津軽地方の民謡。「じょんから節」とも言う。津軽五ツ物(五大民謡)および三ツ物(三大民謡)の筆頭格に数えられる、津軽民謡の王様的存在。高橋つやによれば、一般に津軽地方の人は「じょんから」、他地方の人は「じょんがら」と発音するということだが、これは必ずしも当てはまらない。生粋の津軽人が「じょんがら」と発音している場合も多いし、また普段は「じょんから」と言っているのに唄では「じょんがら」になっている人もいたりして、「か」と「が」は言語学的には非弁別的。要するに、どっちでも良いようだ。 じょんがら節の歴史は、まず越後の瞽女(ごぜ)や座頭などが、新潟の「新保広大寺くずし」を津軽へ持ち込んだことに始まる。これをベースに、黒川桃太郎、梅田豊月、白川軍八郎、高橋竹山、木田林松栄などが独自のフレーズを競い合い、やがて津軽独自のじょんがら節を生み出していった。このとき生まれた激しい三味線伴奏は、そのまま五大民謡すべてに採り入れられて津軽独自の民謡を作り出し、のちの「津軽三味線」につながってゆく。 語源については諸説あるが、俗説では「上河原節」(または上川原節)の転訛とも言われ、三つの伝説が残っている。 ひとつは、慶長2年、初代津軽藩主・津軽為信に討たれた千徳政の霊を慰めるために、上河原にある墓の前で家臣達が唄ったものだという説。もうひとつは、その時主君を追って上河原に入水した、神崇寺の住職常椽を悼んで名付けられたとする説。そして最後のひとつは、千徳政の墓をも暴こうとする津軽為信に激しく抗議した常椽が為信に追われ、最終的に浅瀬石川に身を投げ、そこが「常椽河原」(じょうえんがわら)と呼ばれた、という説である。 これらの俗説には共通して怪しい点がある。第一に、転訛の過程がやや不明瞭であること。第二に、史実として一貫性に乏しいこと。第三に、起源となったはずの「上河原節」がまったく残っていないこと。第四に、元唄と言われる「新保広大寺くずし」との関連性が説明されていないこと。このあたり、学術的見地から見れば断言には至らないだろう。 とは言え、まったくの無根拠というわけでもなく、「じょんがら節発祥の地」とされる青森県黒石市には「上川原」という地名が残っていたり、津軽じょんがら節のルーツとされる「黒石じょんがら節」が残っていたりする。俗説をそのまま採用するには難があるが、一方で完全否定もできないという微妙な状態だ。 じょんがら節には大きく分けて4種類あり、江戸末期から明治期に唄われていた節を「旧節」、大正から昭和にかけて唄われていた節を「中節」(昭和中期にも流行)、昭和以降を「新節」、また戦後の民謡酒場全盛期に新しく作られた節を「新旧節」として区別している。いずれも歌詞に大差はないのだが、唄の節回しと三味線のリズムに大きな違いがある。 現代、津軽三味線独奏として主に演奏されているのは、ほとんどが津軽じょんがら節の新節である。また、各奏者のオリジナル曲もじょんがら節をベースにしているものが多い。
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